韜晦日記

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Rietveldよりもプログラミングメインになりつつある

Rietveld解析初心者による備忘録とつぶやき

D坂の殺人事件-芸術作品の面白さ-

D坂の殺人事件 /江戸川乱歩

僕は研究の休憩がてらに読もうと江戸川乱歩傑作選を机の上に出していた。今日は開校記念日。学生は殆どおらず、閑散として涼しげな研究室。僕は秋の気配を感じずにはいられません。
丁度そこに石川という男が研究室にやってきて、この本を見るや否やこう言った。

「あ!江戸川乱歩じゃん!D坂の殺人事件ほんとつまらないよね。あれはない。」

突然なに言うかと思えば、彼曰くこの傑作選に収録されている「D坂の事件簿」の落ちがあまりにも下らないそうだ。

落ちが下らない?何故そのような結論に至ったのか。僕はなんとなく察しがついていた。

僕の友人であるところのこの石川は、友人の中でもとりわけ真面目なのだ。
真面目も真面目、大真面目。クソ真面目ともいっても罰は当たらないと思う。好意の抱いた今の彼女をしっかりと口説き、――どちらが言い出したかは定かではないが――しっかりとお付き合いを申し込み、情事を好まない彼女と3年も何事もなく付き合っている。今時珍しい甲斐性のある男なのである。

一方の僕はというと、恋愛なんて学生のうちはただの遊びであると確信しているし、浮気のチャンスをみすみす逃したことを今でも後悔している不真面目な人間である。そんな対極的な貞操観念を持ち合わせている僕ら二人の感想は、期待を裏切ることなく真逆となった。

ここでD坂の殺人事件の顛末がこの話に大いに関係あるのでここにざっとそれをお話しておく。

この物語の主な登場人物

作品の語り部。学校を出たばかりの所謂ニート。気になっている古本屋の妻が、近頃知り合た明智の幼馴染と知る。

近頃喫茶店「白梅軒」で私と知り合う。探偵小説好きで、四畳半しかない下宿先の自室は、四方を寝る場所もないほどの本の山に埋められている。よくある変人

  • 古本屋の主人と妻

「白梅軒」の向かいに古本屋を構える。妻の体中は傷だらけ

古本屋の隣に蕎麦屋を構える。後に分かるが妻の体中は傷だらけ。

あらすじ


以下はネタバレを含む

9月初旬、私は白梅軒という行きつけの喫茶店で冷めたコーヒーを啜っていた。向かいには古本屋があり、そこの妻がなかなか美人なもので官能的に男を引き付けるものだから、店番に出るのを窓から眺めて待っていた。その時、明智小五郎が窓の外を通りかかった。彼は私に気づくと会釈して中へ入ってきた。

二人で話をしながら、彼もまた古本屋の方にずっと眼を向ける。そうこうしているうちに古本屋から本を盗み出す本泥棒が4人目となっていた。普段なら店番がいるはずなのに、どうもおかしい。不思議に思った私と明智は古本屋に向かうが人はいない。奥に声をかけても返事がない。不審に思った明智が部屋に上がるとそこには古本屋の妻の死体が横たわっていた。見たところ、妻は首を絞められて殺害されたようだ。

古本屋の主人のアリバイも証明され、妻の殺された部屋の出入口は全て見張られた状態であり、所謂密室的殺人事件である。警察の捜査が難航し、第一発見者である私と明智は夫々推理を始める。やがて私は、その犯人が明智小五郎ではないかと推理するのだが、明智にこれを打ち明けたところ、彼はゲラゲラと笑い出したのである。

明智は私の推理に反証を述べた後、種明かし(明智の推理)をする。古本屋の妻は「被虐色情者」で、同じ長屋である蕎麦屋には「残虐色情者」であるところの蕎麦屋の主人が暮らしていたのである。はからずも、この2人は同じ長屋において、互いの欲望を満たす人間の存在に気付くのであった。やがて蕎麦屋の主人と古本屋の妻はSMに興じるあまり、決して願わなかった事件を引き起こしてしまったのだ。
―おしまい―

そう。この物語、探偵小説でありながら殺人の動機が妬み嫉み恨みの類ではない。SEX中に、興奮のあまりかうっかり殺し殺されるというダーウィン賞ノミネート待ったなしの結末なのだ。

元来より、下ネタを忌み嫌うクソ真面目な石川が憤慨するのもよくわかる。
そりゃそうだ。実に甲斐性のある彼からすれば、SMという世界は異世界そのもの。パラレルワールドなのだ。たぶんね。
3年も情事のお預けを忠実に守り、彼女を裏切りもせず真っ当に生きる石川には、SMの末の死というしょうもない世界観は当てはまらない。彼女の首なんて絞めたことなどないだろう。

しかし、この一編の本筋は実はここではない。この物語の面白さは"私"が事実や証言を参考に、物質的に推理を進めたのに対して、明智は人間の記憶は曖昧なものとして内面的に心理的に推理を行った点である。
目撃者の証言にしても如何に曖昧なものであるかを整理した上で、人間的な欲求と心理に重きを置いて推理した明智が正しく答えを出せたね。凄いね明智小五郎!!というところなのだ。
余談となるが、この後明智小五郎は探偵としての才を露わにし、次に登場する"心理試験"では有名な探偵になっている。

先にも触れたが、明智小五郎と私の推理は対象的で面白い。SMという切り込み方で物語を作り上げたのも江戸川乱歩らしさだと僕はそう思う。この作品を大正13年発表しているのだから驚きである。
あの時代にもSMの概念が存在したのか。なんて感心したし、SMの結果死んでしまうなんて想像しただけでゾクゾクしそう。なんて安易に思うものだから、価値観というのは怖い。

繰り返すようになるが、彼からしてみれば殺人事件の顛末が、残虐色情者と被虐色情者(つまりSM)の行為の末であることが、下らなくどうも許せないらしい。

僕は話を終え、扉の向こう側にある彼の背中をコーヒーを啜りながら眺めていた。
石川が視界から消える頃、ある人の言葉を思い出した。

人間は過去の経験と蓄えた知識の範囲で行動する生き物である。
通常、過去の体験、経験、知識にないことは行うことができない。そして、否定的な思考に陥りやすい。
何か否定的な感情を持ったとき、第一に己の知識と経験の浅さについて考えると良い。

まあ、こんな具合である。
納得。石川はこれまでSMじみた経験は無いだろうし。今後もしないだろう。あ、かといってこの小説が面白いと思った僕がSMの経験者とは口が裂けても言えないけども。
つまるところ、石川は経験と知識から発する心理から、D坂の殺人事件に対する不誠実を感じたのだと僕は思った。


ここまで、石川と僕の対比と共に小説についての感想を述べようと試みたが難しい。しかしこの難しさは小説だけではない。
本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かを持っている。小説だけでなく、優れた音楽や美術など、芸術とはすべてこういうもので、それらに接したときの「感じ」は、私たちがふつうに使っている言葉では説明できない。
作家の保坂和志もこう言っているくらいだから芸術作品の面白さについて語るのは、容易ではない。だからと言って語るのは駄目ということはないし。大いに話してほしい。
悲しいかな、芸術作品に対して受動的な僕からは何も言えないけど。



あるとき石川はこういった。
「俺が本を読む理由は、僕らの人生では味わうことのできない"知識"と"経験"を補うためである。」
なるほど。我が友よ。そんなに気張らなくてもいいのではあるまいか。

彼はまじめ。