韜晦日記

韜晦日記

Rietveldよりもプログラミングメインになりつつある

Rietveld解析初心者による備忘録とつぶやき

一人で呑むお茶は味気ない。

急須に余るお茶。

今、親の脛を存分に噛み締めながら一人暮らしをしています。日々の生活に於いて、インドア派の仮面を被る僕としては、机に張り付く為にも飲み物を大切にしたいところです。
ご飯はいつも適当なので、せめてもの償い。

日頃のレパートリーはおいしいお水(水道水), コーヒー, お茶の3択。偶に紅茶と洒落込むこともあるけれど、ティーカップがないと中々飲もうという気にはなれません。実家にいるときは、WEDGWOOD, Royal Copenhagen, Richard Ginoriなどのティーカップがあったので結構愉しかったです。最近ではNARUMIが好きなんです。あのボウルの様なフォルムと艶々の白い陶磁がいいんです。確かアフタヌーンティもNARUMIを使っていた気がします。カフェとかでは結構見かけますよね。
あ、あと、書いてて思い出した余談ですが、デスノートの映画で探偵役Lの松山ケンイチが使っていたティーカップが、自分のお気に入りだったWEDGWOODのフロレンティーンで当時興奮したのが懐かしいです。

閑話休題、コーヒーはいいとして、お茶を飲むときに結構困ったことが起こるのです。急須で湯呑にお茶を淹れると、確実に余ってしまうのです。これは由々しき事態。お茶を淹れるの「淹」は「ひたす」の意味で、茶葉ならもちろん妥当だし、コーヒーにも使わないことはないと思いますが。と、本で読んだウンチクはどうでもいいとして、この場合は浸し過ぎになります。
飲みきれず、急須の中でお湯にとっぷりと浸かる茶葉。湯呑に注ぎ足す頃にはそれはもう濃ゆい緑の飲み物になってしまいます。

なら、薄めればいいだろ。だったら急須に入れるお湯の量減らせよ。と読者諸賢はそう思うかもしれません。(読者諸賢って言ってみたかった。)
違うのです。本来、お茶は家族であったり、可愛い女の子と一緒に呑むときが至福なのではありませんか。そこに会話がなくとも、ただ庭を眺める、カップの絵柄を愉しむ、陶磁を透かして見える液面をただ意味もなく眺める、その瞬間に至福を感じるものだと私は思います。だからこそ、急須には2, 3人分のお湯を注ぐことができるし、その量が私にとっても、急須にとっても一番しっくりくる量なのです。

そんな理由でどうしても急須には中途半端に1人分お湯を注ぐことができないのです。コーヒーはいいですよ。だってドリップしてしまえば後は関係ないですもの。冷めて酸味の増したことさえ除けば大した差ではありません。(いや、結構致命的な差じゃねーか?)

結局、急須に余り、大変濃ゆくなったお茶は、お湯割りで呑むことになります。このお湯割りというものが悲しいもので、一人暮らしの孤独を印象付けます。急須に残った濃厚緑茶をお湯でチビチビ呑む姿はなんだか哀愁的ではありませんか。上手く纏められませんが、なんだか一人で呑むお茶というのは、味気ないものです。
でも、緑茶は大好きなので結局飲むんですけどね。


といった感じで、さっきお茶を呑んでてふと思ったの。変な愚痴を聞いてくれてありがとね。
あわよくば、うら若き淑女が「一緒にお茶しませんか」と言ってくれると、いいな。
ではまた今度。

P.S.
ちなみに私には、バンホーテンココアを愛でる余り、四六時中穴という穴からバンホーテンココアを摂取している友達がいました。彼の卒業後、学校の購買からひっそりと姿を消したバンホーテンに気づく人はいるだろうか。そして、彼の手の震えはどうなったのでしょうか。